昭和43年12月29日 夜の御理解



 信心を大体に頂かしてもらうというか、まあ大掴みにこう分からしてもらいます。信心というものがこの有り難いもんだと、まあ思うんですね。例えばお花の稽古をして、お花を一通りこう、まあ入れ習います。そこまではだいたい、普通稽古をさしてもらやあ誰でもできるんですけれども、そのお花を入れたその後がね、時々それを見てみませんと、例えば、盛り花がこういっぱいしてある、その中の一本がちょっと入れた時と、ちょっとこう位置が変わっておるだけで、その花全体が崩れます。
 ですからそこんところをいつも小さい心を使うて、その花をやっぱりこう見ていかなければならないようにですね、信心もやっぱりそれが大事。いわゆる目の細かい信心というのはそう言う様な事じゃないかとこう思うのです。私は今晩お風呂を頂かしてもらって、私はあれはいつのことでしたかね、私あのお風呂で湯桶半分というお湯を湯桶に半分しか使わない、沢山使うんです。
 けれども必ずくみ出すのは、もう湯桶半分しか使わない、言う事にまあしております。ですからお風呂ん時にはお水を使うでもやっぱり同じ事です。お湯はもう誰人並み以上に使います。けど問題はその使うとか使わないとかと言う事じゃなくてね、私はあの使う時にはもう必ず湯桶半分で用を足しれるのだから、今まではざばっと一杯くんでおったのを、半分ちょっと心がけるというだけの事です、ちょっと心掛けておると。
 今日は二つの湯桶に私はゆすぎを二つ必ずつくるんです、一遍体拭いといてまた片一方の方のくんである水でまた一遍ゆすいで、最後に上がって来なければ気持ち悪いです。と言う事は片一方の湯桶に水がすずれれるようになったんですよ、ね。ですからこれは勿体無いと思うてから、片一方の方の桶に、その湯桶の桶ば半分ずつこうしよる時に、しよるこの桶にかちっとおいさみがつきましたね。
 ですからあの何て言うでしょうかね、それを神様が喜びなさると言う事じゃないけれども、いつも心にかけておると言う事なんですね。小さいことにね。湯を沢山使うとか使わないとか、もう一杯くんだっちゃから片一方のつがまたこうというじゃなくてから、その湯桶がいっぱいになって、その湯桶の水をですね、片一方に半分こうやる、移したね。そのことを喜ばれるのじゃないけれども。
 そう心をいつも使うておるというところに私は神様が感動したもうというか、言わば大池に活けておるその花がちょっと私共の場合。いつの場合でも狂うとらんようであって、どこにか狂いができておる。そう言う様な些細な心使いがですね、ちょうど形の狂いよった花をちょっとこう、直すような役割になるのじゃなかろうかとこう思うのですね。ですから信心は思いでするもの。心がけでするものといったようなことも言えるわけですね。   どうぞ。